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後醍醐天皇玉座
𠮷水神社書院の中にあるこの部屋は、延元元年(1336年)後醍醐天皇が京の花山院より秘かに吉野に行幸された時、吉水院の宗信法印が三百名の僧兵を従えて、天皇をここに御迎えしました。
後醍醐天皇はこの部屋を南朝の皇居と定められて、吉野朝の歴史の第一頁が始まりました。
天皇は建武の中興の偉業を成されるため、昼夜御努力をなされ王政復古を願われながら、南朝での御生活をされましたが、延元四年(1339年)にこの地で病により倒れられ、静かな最後を遂げられました。
「花にねて よしや吉野の𠮷水の 枕のもとに 石走る音」
という後醍醐天皇の御製は、この吉水院で御寝の際に歌われたものと伝えられています。
後醍醐天皇 玉座
桃山式書院(帳台構)桃山時代
この部屋は上段の間五畳と下段十畳敷で構成され、桃山期特有の帳台構に模様替えを施した書院(*1)で、当時の完成された豪華な書院造の様式と風格が示された典型的桃山書院です。
この書院は御所造で、皇室特有の気品の高い要素が残されています。
*1 文禄三年に豊臣秀吉が南朝を偲んで吉水院を本陣として盛大なる花見の宴を催し、この御部屋に約五日間滞在され、歌の会、茶の会、御能の会などを開いて豪遊され、一世の英雄がその権勢を天下に示しました。この部屋は秀吉の寄贈により修繕されたものです。
特 徴
床の間
正面の右手に正床を用い左手に並んで浅い脇床を使用した変わった構造で正面に違棚を備えない御所造の特色を表しています。(武家造は正面に棚を置きます)
西楼棚
上段側に設けた棚は格調の高い西楼棚を使用し、上下を支えた束は唐草模様の細工で優美で上品な作りで、全国的にも珍しい手法を残しています。
障壁画と屏風
正面に張られた障壁画は狩野永徳の作品で、屏風は狩野山雪の作品です。
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